P--1321 P--1322 P--1323 #1安心決定鈔 #2本 安心決定鈔 本 浄土真宗の行者は まつ本願のおこりを 存知すへきなり 弘誓は 四十八なれとも 第十八の願を 本意 とす 余の四十七は この願を 信せしめんか ためなり この願を 礼讃に釈したまふに 若我成仏 十 方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚といへり この文のこゝろは 十方衆生 願行成就して  往生せは われも 仏にならん 衆生往生せすは われ正覚を とらしとなり かるかゆへに 仏の正覚は  われらか 往生すると せさるとに よるへきなり しかるに 十方衆生 いまた 往生せさるさきに 正 覚を成することは こゝろえ かたきことなり しかれとも 仏は衆生にかはりて 願と行とを 円満して  われらか往生を すてにしたゝめたまふなり 十方衆生の 願行円満して 往生成就せしとき 機法一体の  南無阿弥陀仏の 正覚を成し たまひしなり かるかゆへに 仏の正覚のほかは 凡夫の往生は なきなり  十方衆生の 往生の成就せしとき 仏も正覚を なるゆへに 仏の正覚なりしと われらか 往生の成就せ しとは 同時なり 仏のかたよりは 往生を成せしかとも 衆生か このことはりを しること 不同なれ は すてに 往生する ひともあり いま往生する ひともあり 当に往生すへき ひともあり 機によりて  P--1324 三世は 不同なれとも 弥陀の かはりて 成就せし 正覚の一念のほかは さらに 機より いさゝかも  そふることは なきなり たとへは 日いつれは 刹那に 十方のやみ こと〜くはれ 月いつれは 法 界の水 同時に かけをうつすかことし 月はいてゝ かけを水にやとす 日はいてゝ やみのはれぬこと  あるへからす かるかゆへに 日は いてたるか いてさるかを おもふへし やみは はれさるか はれ たるかを うたかふへからす 仏は 正覚なりたまへるか いまた なりたまはさるかを 分別すへし 凡 夫の往生を うへきか うへからさるかを うたかふへからす 衆生往生せすは 仏にならしと ちかひた まひし 法蔵比丘の 十劫に すてに 成仏したまへり 仏体よりは すてに成し たまひたりける往生を  つたなく 今日まて しらすして むなしく 流転しけるなり かるかゆへに 般舟讃には おほきに す へからく 慙愧すへし 釈迦如来は まことにこれ 慈悲の父母なりといへり 慙愧の二字をは 天にはち  人にはつとも釈し 自にはち 他にはつとも釈せり なにことを おほきに はつへしと いふそといふに  弥陀は 兆載永劫のあひた 無善の凡夫に かはりて 願行をはけまし 釈尊は 五百塵点劫の むかしよ り 八千遍まて 世にいてゝ かゝる 不思議の誓願を われらに しらせんと したまふを いまゝて  きかさることを はつへし 機より成する 大小乗の行ならは 法はたへなれとも 機かおよはねは ちか らなしと いふことも ありぬへし いまの他力の願行は 行は仏体にはけみて 功を無善のわれらに ゆ つりて 謗法闡提の機 法滅百歳の機まて 成せすといふことなき 功徳なり このことはりを 慇懃に  P--1325 つけたまふことを 信せす しらさることを おほきに はつへしと いふなり 三千大千世界に 芥子は かりも 釈尊の身命を すてたまはぬ ところはなし みなこれ 他力を信せさる われらに 信心を お こさしめんと かはりて 難行苦行して 縁をむすひ 功をかさね たまひしなり この広大の 御こゝろ さしを しらさることを おほきに はちはつへしと いふなり このこゝろを あらはさんとて 種々の 方便をもて われらか 無上の信心を 発起すと釈せり 無上の信心といふは 他力の三信なり つきに  種々の方便をとく教文 ひとつにあらすといふは 諸経随機の 得益なり 凡夫は 左右なく 他力の信心 を 獲得することかたし しかるに 自力の成しかたきことを きくとき 他力の易行も 信せられ 聖道 の難行をきくに 浄土の修しやすきことも 信せらるゝなり おほよす 仏のかたより なにのわつらひも なく 成就したまへる 往生を われら 煩悩に くるはされて ひさしく 流転して 不思議の仏智を  信受せす かるかゆへに 三世の衆生の 帰命の念も 正覚の一念にかへり 十方の有情の 称念の心も  正覚の一念にかへる さらに 機にをいて 一称一念も とゝまることなし 名体不二の 弘願の行なるか ゆへに 名号すなはち 正覚の全体なり 正覚の体なるかゆへに 十方衆生の 往生の体なり 往生の体な るかゆへに われらか願行 こと〜く 具足せすと いふことなし かるかゆへに 玄義にいはく いま この観経のなかの 十声の称仏には すなはち 十願ありて 十行具足せり いかんか 具足せる 南無とい ふは すなはち これ帰命 またこれ 発願廻向の義なり 阿弥陀仏といふは すなはち これその行なり  P--1326 この義を もてのゆへに かならす 往生をうといへり 下品下生の 失念の称念に 願行具足することは  さらに 機の願行に あらすと しるへし 法蔵菩薩の 五劫兆載の 願行の 凡夫の願行を 成するゆへ なり 阿弥陀仏の 凡夫の願行を 成せしいはれを 領解するを 三心ともいひ 三信ともとき 信心とも いふなり 阿弥陀仏は 凡夫の願行を 名に成せしゆへを 口業にあらはすを 南無阿弥陀仏といふ かる かゆへに 領解も 機にはとゝまらす 領解すれは 仏願の体にかへる 名号も 機にはとゝまらす とな ふれは やかて 弘願にかへる かるかゆへに 浄土の 法門は 第十八の願を よく〜 こゝろうる  ほかには なきなり 如無量寿経 四十八願中 唯明専念 弥陀名号得生とも釈し 又此経 定散文中 唯 標専念 弥陀名号得生とも 釈して 三経ともに たゝこの本願を あらはすなり 第十八の願を こゝろ うるといふは 名号をこゝろうるなり 名号を こゝろうるといふは 阿弥陀仏の 衆生にかはりて 願行 を成就して 凡夫の往生 機にさきたちて 成就せしきさみ 十方衆生の往生を 正覚の体とせしことを  領解するなり かるかゆへに 念仏の行者 名号をきかは あは はやわか往生は 成就しにけり 十方衆 生 往生成就せすは 正覚とらしと ちかひたまひし 法蔵菩薩の 正覚の果名なるか ゆへにと おもふ へし また 弥陀仏の 形像をおかみ たてまつらは あは はやわか往生は 成就しにけり 十方衆生  往生成就せすは 正覚とらしと ちかひたまひし 法蔵薩&M005190;の 成正覚の 御すかたなるゆへにと おもふ へし また 極楽といふ 名をきかは あは わか往生すへきところを 成就したまひにけり 衆生往生せ P--1327 すは 正覚とらしと ちかひたまひし 法蔵比丘の 成就したまへる 極楽よと おもふへし 機をいへは  仏法と 世俗との 二種の善根なき 唯知作悪の機に 仏体より 恒沙塵数の功徳を 成就するゆへに わ れらか ことくなる 愚痴悪見の 衆生のための 楽のきはまり なるゆへに 極楽といふなり 本願を信 し 名号をとなふとも よそなる仏の 功徳とおもふて 名号に 功をいれなは なとか往生を とけさら んなんと おもはんは かなしかるへき ことなり ひしとわれらか 往生成就せしすかたを 南無阿弥陀 仏とは いひけるといふ 信心おこりぬれは 仏体すなはち われらか往生の 行なるかゆへに 一声のと ころに 往生を決定するなり 阿弥陀仏といふ 名号をきかは やかて わか往生と こゝろえ わか往生 は すなはち 仏の正覚なりと こゝろうへし 弥陀仏は 正覚成したまへるか いまた 成したまはさる かをは うたかふとも わか往生の 成するか 成せさるかをは うたかふへからす 一衆生のうへにも  往生せぬことあらは ゆめ〜 仏は正覚 なりたまふ へからす こゝを こゝろうるを 第十八の願を  おもひわくとはいふなり まことに 往生せんと おもはゝ 衆生こそ 願をもおこし 行をも はけむへ きに 願行は 菩薩のところに はけみて 感果は われらか ところに成す 世間出世の 因果のことは りに 超異せり 和尚は これを 別異の弘願と ほめたまへり 衆生に かはりて 願行を成すること  常没の衆生を さきとして 善人におよふまて 一衆生のうへにも をよはさる ところあらは 大悲の願  満足すへからす 面々衆生の 機ことに 願行成就せしとき 仏は正覚を成し 凡夫は 往生せしなり か P--1328 ゝる 不思議の名号 もし きこえさる ところあらは 正覚とらしと ちかひたまへり われら すてに  阿弥陀といふ 名号をきく しるへし われらか往生 すてに成せりと いふことを きくといふは たゝ おほやうに 名号を きくにあらす 本願他力の 不思議をきゝて うたかはさるを きくとはいふなり  御名をきくも 本願より成してきく 一向に他力なり たとひ 凡夫の往生 成したまひたりとも その願  成就したまへる 御名をきかすは いかてか その願 成せりと しるへき かるかゆへに 名号をきゝて も 形像を拝しても わか往生を 成したまへる 御名ときゝ われらを わたさすは 仏にならしと ち かひたまひし 法蔵の誓願 むなしからすして 正覚成したまへる 御すかたよと おもはさらんは きく とも きかさるかことし みるとも みさるかことし 平等覚経に のたまはく 浄土の法門を とくをき ゝて 歓喜踊躍し 身の毛 いよたつといふは そゝろに よろこふにあらす わか出離の行を はけまん とすれは 道心もなく 智恵もなし 智目行足 かけたる身なれは たゝ三悪の火坑に しつむへき 身な るを 願も行も 仏体より成して 機法一体の 正覚成し たまひけることの うれしさよと おもふとき  歓喜のあまり おとりあかるほとに うれしきなり 大経に爾時聞一念とも 聞名歓喜讃ともいふは この こゝろなり よそに さしのけては なくして やかて わか往生 すてに成したる名号 わか往生したる  御すかたとみるを 名号をきくとも 形像をみるとも いふなり このことはりを こゝろうるを 本願を 信知すとは いふなり 念仏三昧にをいて 信心決定せんひとは 身も南無阿弥陀仏 こゝろも 南無阿弥 P--1329 陀仏なりと おもふへきなり ひとの身をは 地水火風の四大 よりあひて成す 小乗には 極微の所成と いへり 身を 極微にくたきて みるとも 報仏の功徳の そまぬところは あるへからす されは 機法 一体の 身も南無阿弥陀仏なり こゝろは 煩悩随煩悩等 具足せり 刹那々々に生滅す こゝろを 刹那 に ちはりて みるとも 弥陀の願行の 遍せぬところ なけれは 機法一体にして こゝろも 南無阿弥 陀仏なり 弥陀大悲の むねのうちに かの常没の衆生 みち〜たるゆへに 機法一体にして 南無阿弥 陀仏なり われらか 迷倒のこゝろの そこには 法界身の 仏の功徳 みち〜たまへるゆへに また機 法一体にして 南無阿弥陀仏なり 浄土の依正二報も しかなり 依報は 宝樹の葉 ひとつも 極悪のわ れらか ためならぬこと なけれは 機法一体にして 南無阿弥陀仏なり 正報は 眉間の白毫相より 千 輻輪の あなうらに いたるまて 常没の衆生の 願行円満せる 御かたち なるゆへに また機法一体に して 南無阿弥陀仏なり われらか 道心二法 三業四威儀 すへて 報仏の功徳の いたらぬところ な けれは 南無の機と 阿弥陀仏の 片時も はなるゝこと なけれは 念々みな 南無阿弥陀仏なり され は いつるいき いるいきも 仏の功徳を はなるゝ時分 なけれは みな南無阿弥陀仏の 体なり 縛曰 羅冒地と いひしひとは 常水観を なししかは こゝろにひかれて 身もひとつのいけとなりき その法 に そみぬれは 色心正法 それに なりかへる ことなり 念仏三昧の領解 ひらけなは 身も こゝろ も 南無阿弥陀仏 なりかへりて その領解 ことはに あらはるゝとき 南無阿弥陀仏と まふすか うる P--1330 はしき 弘願の念仏にて あるなり 念仏といふは かならすしも くちに 南無阿弥陀仏と となふるの みにあらす 阿弥陀仏の功徳 われらか 南無の機に をいて 十劫正覚の 刹那より 成しいり たまひ けるものをといふ 信心のおこるを 念仏といふなり さてこの領解を ことはりあらはせは 南無阿弥陀 仏と いふにてあるなり この仏の心は 大慈悲を 本とするゆへに 愚鈍の衆生を わたしたまふを さ きとするゆへに 名体不二の 正覚をとなへ ましますゆへに 仏体も名におもむき 名に体の功徳を 具 足するゆへに なにと はか〜しく しらねとも 平信のひとも となふれは 往生するなり されとも  下根の凡夫なるゆへに そゝろに ひら信しも かなふへからす そのことはりを きゝひらくとき 信心 は おこるなり 念仏をまふすとも 往生せぬをは 名儀に 相応せさるゆへとこそ 曇鸞も 釈したまへ  名儀に 相応すといふは 阿弥陀仏の 功徳力にて われらは 往生すへしと おもふて となふるなり  領解の信心を ことはに あらはすゆへに 南無阿弥陀仏の 六字を よくこゝろうるを 三心といふなり  かるかゆへに 仏の功徳 ひしと わか身に 成したりと おもひて くちに 南無阿弥陀仏と となふる か 三心具足の 念仏にて あるなり 自力のひとの 念仏は 仏をは さしのけて 西方におき わか身 をは しら〜とある 凡夫にて とき〜 こゝろに 仏の他力をおもひ 名号を となふるゆへに 仏 と衆生と うと〜しくして いさゝか 道心 おこりたるときは 往生も ちかくおほえ 念仏も もの うく 道心も さめたるときは 往生も きはめて 不定なり 凡夫の こゝろとしては 道心を おこす P--1331 ことも まれなれは つねには 往生不定の身なり もしや〜と まてとも 往生は 臨終まて おもひ さたむること なきゆへに くちにとき〜 名号を となふれとも たのみかたき 往生なり たとへは とき〜 ひとに見参 みやつかひするに にたり そのゆへは いかにして 仏の御こゝろに かなはん するとおもひ 仏に追従して 往生の御恩をも かふらんするやうに おもふほとに 機の安心と 仏の大 悲とか はなれ〜にて つねに 仏にうとき身なり このくらゐにては まことに きはめて 往生不定 なり 念仏三昧といふは 報仏弥陀の 大悲の願行は もとより まよひの衆生の 心想のうちに いりた まへり しらすして 仏体より 機法一体の 南無阿弥陀仏の 正覚に成し たまふことなりと 信知する なり 願行みな 仏体より 成することなるか ゆへに おかむ手 となふるくち 信するこゝろ みな他力 なりと いふなり かるかゆへに 機法一体の 念仏三昧を あらはして 第八の観には 諸仏如来 是法 界身 入一切衆生 心想中と とく これを釈するに 法界といふは 所化の境 すなはち 衆生界なりと いへり 定善の衆生ともいはす 道心の衆生ともとかす 法界の衆生を 所化とす 法界といふは 所化の 境 衆生界なりと 釈する これなり まさしくは こゝろいたるかゆへに 身もいたるといへり 弥陀の 身心の功徳 法界衆生の 身のうち こゝろのそこに いりみつゆへに 入一切衆生 心想中と とくなり  こゝを信するを 念仏衆生と いふなり また真身観には 念仏衆生の三業と 弥陀如来の三業と あひは なれすと釈せり 仏の正覚は 衆生の往生より成し 衆生の往生は 仏の正覚より 成するゆへに 衆生の P--1332 三業と 仏の三業と またく 一体なり 仏の正覚のほかに 衆生の往生もなく 願も行も みな仏体より  成したまへりと しりきくを 念仏の衆生といひ この信心の ことはに あらはるゝを 南無阿弥陀仏と いふ かるかゆへに 念仏の行者に なりぬれは いかに 仏をはなれんと おもふとも 微塵のへたても  なきことなり 仏のかたより 機法一体の 南無阿弥陀仏の 正覚を成し たまひたりけるゆへに なにと  はか〜しからぬ 下々品の 失念のくらゐの称名も 往生するは となふるとき はしめて 往生するに はあらす 極悪の機のために もとより 成したまへる 往生を となへあらはすなり また大経の 三宝 滅尽の衆生の 三宝の名字をたにも はか〜しく きかぬほとの機か 一念となへて 往生するも とな ふるとき はしめて 往生の成するにあらす 仏体より成せし 願行の薫修か 一声称仏のところに あら はれて 往生の一大事を 成するなり かくこゝろうれは われらは 今日今時 往生すとも わかこゝろ の かしこくて 念仏をもまふし 他力をも 信するこゝろの 功にあらす 勇猛専精に はけみたまひし  仏の功徳 十劫正覚の刹那に われらにおいて 成したまひたりけるか あらはれ もてゆくなり 覚体の 功徳は 同時に 十方衆生のうへに 成せしかとも 昨日あらはす ひともあり 今日あらはす ひともあ り 已今当の 三世の往生は 不同なれとも 弘願正因の あらはれ もてゆくゆへに 仏の願行の ほか には 別に機に 信心ひとつも 行ひとつも くはふることは なきなり 念仏といふは このことはりを 念し 行といふは このうれしさを 礼拝恭敬するゆへに 仏の正覚と 衆生の行とか 一体にして はな P--1333 れぬなり したしといふも なをおろかなり ちかしといふも なをとをし 一体のうちにおいて 能念所 念を 体のうちに 論するなりと しるへし 安心決定鈔 本 P--1334 #2末 安心決定鈔 末 往生論に 如来浄花衆 正覚花化生といへり 他力の大信心を えたるひとを 浄華の衆とは いふなり  これは おなしく 正覚のはなより 生するなり 正覚花といふは 衆生の往生を かけものにして もし 生せすは 正覚とらしと ちかひたまひし 法蔵菩薩の 十方衆生の願行 成就せしとき 機法一体の正覚  成したまへる 慈悲の御こゝろの あらはれたまへる 心蓮華を 正覚華とは いふなり これを 第七の 観には 除苦悩法ととき 下々品には 五逆の衆生を 来迎する蓮花と とくなり 仏心を 蓮華と たと ふることは 凡夫の 煩悩の泥濁に そまさる さとりなる ゆへなり なにとして 仏心の蓮華よりは  生するそといふに 曇鸞 この文を 同一に念仏して 別の道 なきかゆへにと 釈したまへり とをく通 するに 四海みな兄弟なり 善悪 機ことに 九品 くらゐ かはれとも ともに 他力の願行をたのみ  おなしく 正覚の体に 帰することは かはらさるゆへに 同一念仏して 別の道 なきかゆへにといへり  また さきに往生するひとも 他力の願行に帰して 往生し のちに往生するひとも 正覚の一念に帰して  往生す 心蓮華のうちに いたるゆへに 四海みな兄弟なりと いふなり 仏身をみるものは 仏心をみた P--1335 てまつる 仏心といふは 大慈悲これなり 仏心は われらを愍念したまふこと 骨髓にとをりて そみつ き たまへり たとへは 火のすみに おこりつきたるかことし はなたんとするとも はなるへからす  摂取の心光 われらをてらして 身より髓にとほる 心は 三毒煩悩の 心まても 仏の功徳の そみつか ぬ ところはなし 機法もとより 一体なるところを 南無阿弥陀仏と いふなり この信心 おこりぬる うへは 口業には たとひ とき〜 念仏すとも 常念仏の 衆生にて あるへきなり 三縁のなかに  くちにつねに 身につねにと釈する このこゝろなり 仏の三業の功徳を 信するゆへに 衆生の三業 如 来の仏智と 一体にして 仏の長時修の功徳 衆生の身口意に あらはるゝ ところなり また 唐朝に  傅大士とて ゆゝしく 大乗をもさとり 外典にも達して たふときひと おはしき そのことはにいはく  あさな〜 仏とともにおき ゆふな〜 仏をいたきて ふすといへり これは 聖道の通法門の 真如 の理仏をさして 仏といふといへとも 修得のかたより おもへは すこしも たかふましきなり 摂取の 心光に 照護せられ たてまつらは 行者も またかくのことし あさな〜 報仏の功徳を もちなから おき ゆふな〜 弥陀の仏智と ともにふす うとからん 仏の功徳は 機にとをけれは いかゝはせん  真如法性の理は ちかけれとも さとりなき機には ちからおよはす わかちからも さとりもいらぬ 他 力の願行を ひさしく 身にたもちなから よしなき 自力の執心に ほたされて むなしく 流転の故郷 に かへらんこと かへす〜も かなしかるへき ことなり 釈尊も いかはかりか 往来娑婆 八千遍 P--1336 の 甲斐なきことを あはれみ 弥陀も いかはかりか 難化能化の しるしなきことを かなしみ たま ふらん もし一人なりとも かゝる不思議の 願行を信する ことあらは まことに 仏恩を 報するなる へし かるかゆへに 安楽集には すてに 他力の乗すへき みちあり つたなく 自力にかゝはりて い たつらに 火宅にあらんことを おもはされといへり このこと まことなるかな 自力のひかおもひを  あらためて 他力を信する ところを ゆめ〜 まよひを ひるかへして 本家にかへれともいひ 帰去 来 魔郷には とゝまる へからすとも 釈するなり また法事讃に 極楽無為涅槃界 随縁雑善恐難生 故使如来選要法 教念弥陀専復専といへり この文のこゝろは 極楽は  無為無漏の さかひなれは 有為有漏の 雑善にては おそらくは むまれかたし 無為無漏の 念仏三昧 に 帰してそ 無為常住の 報土には 生すへきと いふなり まつ 随縁の雑善といふは 自力の行を  さすなり 真実に 仏法につきて 領解もあり 信心もおこることは なくして わかしたしきものゝ 律 僧にてあれは 戒は 世にたふとき ことなりといひ あるひは 今生の いのりのためにも 真言を せ さすれは 結縁も むなしからす 真言たふとしなと いふ体に 便宜にひかれて 縁にしたかひて 修す る善なるかゆへに 随縁の雑善と きらはるゝなり このくらゐならは たとひ 念仏の行なりとも 自力 の念仏は 随縁の雑善に ひとしかるへき歟 うちまかせて ひとのおもへる念仏は こゝろには 浄土の 依正をも 観念し くちには 名号をも となふる ときはかり 念仏はあり 念せす となへさるときは  P--1337 念仏もなしと おもへり このくらゐの 念仏ならは 無為常住の 念仏とは いひかたし となふるとき は いてき となへさるときは うせは またことに 無常転変の 念仏なり 無為とは なすことなしと かけり 小乗には 三無為といへり そのなかに 虚空無為といふは 虚空は うすることもなく はしめ て いてくることもなし 天然なる ことはりなり 大乗には 真如法性等の 常住不変の理を 無為と  談するなり 序題門に 法身常住 比若虚空と 釈せらるゝも かのくにの 常住の益を あらはすなり  かるかゆへに 極楽を 無為住のくにといふは 凡夫の なすによりて うせもし いてきもすることの  なきなり 念仏三昧も またかくのことし 衆生の念すれはとて はしめて いてき わするれはとて う する法にあらす よく〜 このことはりを こゝろうへきなり おほよす 念仏といふは 仏を念すとなり 仏を念すといふは 仏の大願業力をもて 衆生の生死の きつ なをきりて 不退の報土に 生すへきいはれを 成就したまへる 功徳を念仏して 帰命の 本願に乗しぬ れは 衆生の三業 仏体にもたれて 仏果の正覚にのほる かるかゆへに いまいふところの 念仏三昧と いふは われらか 称礼念すれとも 自の行にはあらす たゝこれ 阿弥陀仏の行を 行するなりと こゝろ うへし 本願といふは 五劫思惟の本願 業力といふは 兆載永劫の行業 乃至十劫正覚ののちの 仏果の 万徳なり この願行の功徳は ひとへに 未来悪世の 無智のわれらかために かはりて はけみおこなひ  たまひて 十方衆生のうへことに 生死のきつな きれはてゝ 不退の報土に 願行円満せしとき 機法一 P--1338 体の正覚を 成したまひき この正覚の体を 念するを 念仏三昧と いふゆへに さらに 機の三業には  とゝむへからす うちまかせては 機よりしてこそ 生死のきつなを きるへき 行をもはけみ 報土にい るへき 願行をも いとなむへきに 修因感果の 道理にこえたる 別異の弘願なるゆへに 仏の大願業力 をもて 凡夫の往生は したゝめ 成したまひけることの かたしけなさよと 帰命すれは 衆生の三業は  能業となりて うへにのせられ 弥陀の願力は 所業となりて われらか 報仏報土へ 生すへき のりも のと なりたまふなり かるかゆへに 帰命の心 本願に乗しぬれは 三業みな仏体に もたるといふなり  仏の願行は さらに 他のことにあらす 一向に われらか 往生の願行の 体なるかゆへに 仏果の正覚 のほかに 往生の行を 論せさるなり このいはれを きゝなから 仏の正覚をは おほやけものなる や うにて さておいて いかゝして 道心をもおこし 行をも いさきよくして 往生せんすると おもはん は かなしかるへき 執心なり 仏の正覚 すなはち 衆生の往生を 成せる体なれは 仏体すなはち 往 生の 願なり 行なり この行は 衆生の 念不念によるへき 行にあらす かるかゆへに 仏果の正覚の ほかに 往生の行を 論せすと いふなり この正覚を 心に領解するを 三心とも 信心ともいふ この 機法一体の 正覚は 名体不二 なるゆへに これを くちに となふるを 南無阿弥陀仏といふ かるか ゆへに 心に信するも 正覚の一念にかへり くちにとなふるも 正覚の一念にかへる たとひ 千声とな ふとも 正覚の一念をは いつへからす また ものくさく 懈怠ならんときは となへす 念せすして  P--1339 夜をあかし 日をくらすとも 他力の信心 本願に のりゐなは 仏体 すなはち 長時の行なれは さら に たゆむことなく 間断なき 行体なるゆへに 名号 すなはち 無為常住なりと こゝろうるなり 阿 弥陀仏 すなはち これその行といへる このこゝろなり また いまいふところの 念仏三昧は われら か 称礼念すれとも 自の行にはあらす たゝこれ 阿弥陀仏の行を 行するなりといふは 帰命の心 本 願にのりて 三業みな 仏体のうへに 乗しぬれは 身も 仏をはなれたる 身にあらす こゝろも 仏を はなれたる こゝろにあらす くちに念するも 機法一体の 正覚の かたしけなさを称し 礼するも 他 力の恩徳の 身にあまる うれしさを 礼するゆへに われらは 称すれとも 念すれとも 機の功を つ のるにあらす たゝこれ 阿弥陀仏の 凡夫の行を 成せしところを 行するなりと いふなり 仏体無為 無漏なり 依正無為無漏なり されは 名体不二のゆへに 名号も また無為無漏なり かるかゆへに 念 仏三昧に なりかへりて もはらにして またもはらなれと いふなり 専の字 二重なり まつ 雑行を すてゝ 正行をとる これ一重の専なり そのうへに 助業を さしおきて 正定業に なりかへる また 一重の専なり また はしめの専は 一行なり のちの専は 一心なり 一行一心なるを 専復専と いふな り この正定業の体は 機の三業の くらゐの 念仏にあらす 時節の久近をとはす 行住坐臥を えらは す 摂取不捨の仏体 すなはち 凡夫往生の 正定業なるゆへに 名号も 名体不二のゆへに 正定業なり  この機法一体の 南無阿弥陀仏に なりかへるを 念仏三昧といふ かるかゆへに 機の 念不念によらす  P--1340 仏の無礙智より 機法一体に 成するゆへに 名号 すなはち 無為無漏なり このこゝろを あらはして  極楽無為と いふなり 念仏三昧といふは 機の念を 本とするにあらす 仏の大悲の 衆生を 摂取し  たまへることを 念するなり 仏の功徳も もとより 衆生のところに 機法一体に 成せるゆへに 帰命 の心の おこるといふも はしめて 帰するにあらす 機法一体に 成せし功徳か 衆生の意業に うかひ いつるなり 南無阿弥陀仏と 称するも 称して 仏体に ちかつくにあらす 機法一体の 正覚の功徳  衆生の口業に あらはるゝなり 信すれは 仏体にかへり 称すれは 仏体に かへるなり 一 自力他力日輪の事 自力にて 往生せんと おもふは 闇夜に わかまなこの ちからにて ものをみんと おもはんかことし  さらに かなふへからす 日輪のひかりを まなこに うけとりて 所縁の境を てらしみる これしかし なから 日輪のちからなり たゝし 日のてらす 因ありとも 生盲のものは みるへからす また まな こひらきたる 縁ありとも 闇夜には みるへからす 日とまなこと 因縁和合して ものをみるかことし  帰命の念に 本願の功徳を うけとりて 往生の大事を とくへきものなり 帰命の心は まなこのことし  摂取のひかりは 日のことし 南無は すなはち帰命 これまなこなり 阿弥陀仏は すなはち 他力弘願 の法体 これ日輪なり よて 本願の功徳を うけとることは 宿善の機 南無と帰命して 阿弥陀仏と  となふる 六字のうちに 万行万善 恒沙の功徳 たゝ一声に 成就するなり かるかゆへに ほかに 功 P--1341 徳善根を もとむへからす 一 四種往生の事 四種の往生といふは 一には 正念往生 阿弥陀経に 心不顛倒 即得往生ととく これなり 二には 狂 乱往生 観経の下品に ときていはく 十悪破戒五逆 はしめは 臨終狂乱して 手に虚空をにきり 身よ り しろきあせをなかし 地獄の猛火 現せしかとも 善知識にあふて もしは一声 もしは一念 もしは 十声にて往生す 三には 無記往生 これは 群疑論に みえたり このひと いまた 無記ならさりしと き 摂取の光明に てらされ 帰命の信心 おこりたりしかとも 生死の身を うけしより しかるへき  業因にて 無記になりたれとも 往生は 他力の仏智に ひかれて うたかひなし たとへは 睡眠したれ とも 月のひかりは てらすかことし 無記心のなかにも 摂取のひかり たへされは ひかりの ちから にて 無記の心なから 往生するなり 因果の理を しらさるものは なしに 仏の御ちからにて すこし きほとの 無記にも なしたまふそと難し また無記ならん ほとにては よも往生せしなんと おもふは  それは くはしく 聖教をしらす 因果の道理にまとひ 仏智の不思議を うたかふゆへなり 四には 意 念往生 これは 法鼓経にみえたり こえにいたして となへすとも こゝろに 念して 往生するなり  この四種の往生は 黒谷の聖人の 御料簡なり よのつねには くはしく このことを しらすして 臨終 に 念仏まふさす また 無記ならんは 往生せすといひ 名号をとなへたらは 往生とおもふは さるこ P--1342 とも あらんすれとも それはなを おほやうなり 五百の長者の子は 臨終に 仏名を となへたりしか とも 往生せさりしやうに 臨終に こえにいたすとも 帰命の信心 おこらさらんものは 人天に生すへ しと 守護国界経に みえたり されはたゝ さきの四人なから 帰命の心 おこりたらは みな往生しけ るにて あるへし 天親菩薩の 往生論に 帰命尽十方 無礙光如来と いへり ふかき法も あさきたと へにて こゝろえらるへし たとへは 日は観音なり その観音の ひかりをは みとり子より まなこに  えたれとも いとけなきときは しらす すこし こさかしくなりて 自力にて わか目の ひかりにてこ そあれと おもひたらんに よく日輪のこゝろを しりたらんひと をのか目の ひかりならは よるこそ  ものをみるへけれ すみやかに もとの日光に 帰すへしと いはんを信して 日天のひかりに 帰しつる  ものならは わかまなこのひかり やかて 観音のひかり なるかことし 帰命の義も またかくのことし  しらさるときの いのちも 阿弥陀の 御いのち なりけれとも いとけなきときは しらす すこし こ さかしく 自力になりて わかいのちと おもひたらんおり 善知識 もとの阿弥陀の いのちへ 帰せよ と をしふるをきゝて 帰命無量寿覚しつれは わかいのち すなはち 無量寿なりと 信するなり かく のことく 帰命するを 正念をうとは 釈するなり すてに帰命して 正念をえたらんものは たとひ か せおもくして この帰命ののち 無記になるとも 往生すへし すてに 群疑論に 無記の心なから 往生 すといふは 摂取の光明に てらされぬれは その無記の心は やみて 慶喜心にて 往生すといへり ま P--1343 た 観経の下三品は いまた 帰命せさりしときは 地獄の相 現して 狂乱せしかとも 知識に すゝめ られて 帰命せしかは 往生しき また平生に 帰命しつるひとは いきなから 摂取の益に あつかるゆ へに 臨終にも 心顛倒せすして 往生す これを 正念往生と なつくるなり また帰命の信心 おこり ぬるうへは たとひ こえにいたさすして おはるとも なを往生すへし 法鼓経にみえたり これを 意 念往生と いふなり されは とにもかくにも 他力不思議の信心 決定しぬれは 往生は うたかふ へ からさる ものなり 一 観仏三昧経に のたまはく 長者あり 一人のむすめあり 最後の処分に 閻浮檀金をあたふ 穢物につ ゝみて 泥中に うつみておく 国王 群臣をつかはして うはひとらんとす この泥をは ふみゆけとも  しらすしてかへる そのゝち この女人 とりいたして あきなふに さきよりもなを 富貴になる これ はこれ たとへなり 国王といふは わか身の心王にたとふ たからといふは 諸善にたとふ 群臣といふ は 六賊にたとふ かの六賊に 諸善を うはひとられて たつ方もなきをは 出離の縁なきにたとふ 泥 中より こかねを とりいたして 富貴自在に なるといふは 念仏三昧によりて 信心決定しぬれは 須 臾に 安楽の往生を うるにたとふ 穢物につゝみて 泥中におくといふは 五濁の凡夫 穢悪の女人を  正機とするに たとふるなり 一 たきゝは 火をつけつれは はなるゝことなし たきゝは 行者の心にたとふ 火は 弥陀の 摂取不 P--1344 捨の光明に たとふるなり 心光に 照護せられ たてまつりぬれは わか心を はなれて 仏心もなく  仏心を はなれて わか心も なきものなり これを 南無阿弥陀仏とは なつけたり 安心決定鈔 末